私は人里離れた岬に住む売れない物書きです。いえ、本当は作家とは言えま せん。なぜなら私の書いたものは一度も世の中に出たことはないからです。で すが、これだけはなんとしても書いておかなければならないことがあります。 それはある旅のお坊さんから聞かせていただいた話です。これを書くことはそ の方との約束でもあるのです。 私が旅の僧とお会いしたのは、この岬に移り住んだ翌年の五月初めのことで した。その日、朝の散歩から帰った私は、私の住み家となっている建物の裏手 に人が倒れているのに気が付きました。近付いてみると、その身形(みなり)から一見し て仏門にある方のようです。私は傍に寄って声をかけました。何度か声をかけ ているうちにその方は正気付き閉じていた目を開きました。私が「大丈夫です か」と尋ねると旅の僧はかすかに頷きました。私はお坊さんに肩を貸し建物の 中に入っていただきました。お話をお聞きすると、三日も食事を摂っていない と仰るので、お粥を作って差し上げました。僧侶はそれをおいしそうに召し上 がっていらっしゃいましたが、食べ終わると私に礼を述べ、それからこんなこ とをお話しになったのです。 実は、私は(わたくし)以前、ここに住んでいた者なのです。あなたが今お住まいになっ ていらっしゃる、正にこの建物に私は住んでおりました。住んでいたと言うよ り、半ば幽閉されていたのです。 もう二十年以上も前のことになりますが、私は右足に潰瘍ができ、それが治 らなくなってしまったのです。いくつも病院を回りましたが、どこへ行っても 何もわかりませんでした。二年後、すがるような思いで訪ねた大学病院でやっ と診断が付きました。膠原病(こうげん※) ―― それが私の病気でした。原因不明の不治の 病です。私の両親は私がそのような訳のわからない病気になってしまったこと に驚き慌てました。自分の家系(うち)から難病奇病の患者を出すことを恥と思い、決 して世間に知られてはならないと考えたのです。父母は以前自分たちが経営し ていて、すでに営業を取りやめたレストハウスに私を連れて来ました。―― そうです、この建物です。―― お前は今日からここで暮らすのだ。この岬から は絶対に出てはならない。建物の外にもできる限り出ないように。それがお前 のためなのだ。二人はそう言い残して去りました。父と母は私を陸の孤島のよ うなこの岬に閉じ込め、そして知人の目に触れないようにしたのです。その時 私はすでに二十歳を過ぎておりました。子供ではありませんから、親の言うな りになどならず、この岬から出ることも自由に行動することももちろん可能で した。しかし私はそれをしませんでした。気力をなくしていたのです。私には 二度と治らない病気になってしまったことより、自分の実の親がそのような行 動を取ったことの方が衝撃でした。すっかり気落ちした私はこの岬で隠れるよ うな生活を始めたのです。 私がこの岬で暮らし始めてから何日かが過ぎ、その頃から一匹の猫を見かけ るようになりました。白黒の毛色をした猫です。背中の方が頭から尾の先にか けて黒く、顔と腹部四肢は白で、そして特徴的なことに尻尾の付け根に白い輪 がありました。身体(からだ)の大きさから見て、まだ大人にはなりきっていないようで した。その時が十月でしたから、春に生まれた子供と考えると六ヶ月ぐらいだ ったのでしょうか。捨てられたのだと思います。昼間はあまり姿を見せません でしたが、夜になると一人で駆け回って遊んでいる姿を目にすることがありま した。猫は臆病なのか、声をかけても食べ物を与えようとしても、近くに寄っ て来ることはありませんでした。猫のために残り物などを外に出しておいても、 それに手を付けることさえなかったのです。それは、自分を捨てるなどという 仕打ちをした人間、そんな人間などというものとの係わりを避けているかのよ うにも思われました。私は猫を不憫に思いましたが、私にはどうすることもで きません。私にできることと言えばただ見守ること、それだけでした。私は、 誰にも頼らず自分の力で懸命に生きる猫の姿を見守り続けました。 そして七年という歳月が流れたのです。